そして昭和27年(1952年)に、当時の西鉄に入団し、1年目で新人王に輝きました。
2年目には、
▽打率3割1分4厘、
▽ホームラン36本、
▽盗塁36個をマークして、
史上最年少の20歳でいわゆる「トリプルスリー」を達成しました。
昭和31年(1956年)から3年連続で巨人を破って日本一になるなど、名将・三原脩監督が率いる西鉄黄金期の主力として活躍しました。
がっちりした体格を生かしたスイングと打球の速さは、桁外れで
▽ホームラン王に5回、
▽首位打者に2回、
▽打点王に3回輝き、
1シーズンに2つのタイトルを獲得するも、再三わずかの差で三冠王を逃しました。
昭和37年(1962年)には、29歳の若さで選手兼任監督となって翌年、リーグ優勝を果たすなど引退するまで8年間指揮をとりました。
90歳でした。
宮本さんは、プロ5年目の平成11年の秋季キャンプで、初めて中西さんから指導を受け、「アウトコース低めの一番難しいボールを強くスイングできるように、一緒に反復練習をしてくれた。すごく打たされたが、いいスイングをすると『そう!それそれ!』と褒めてくれて、しんどい練習もしんどいと感じさせないようにしてくださった」と、当時の思い出を振り返りました。 また、「シーズンに入っても神宮球場で裸姿に心電図みたいな機械を付けてバッティングピッチャーをしてくれたりしていた」と熱い指導を受けたと話しました。 そのうえで、「指導を受けた翌年の平成12年にキャリアで初めて3割を打てた。僕が打てるようになり、通算2000本安打を達成できたのは、中西さんのおかげなので本当に感謝していますし、恩人です」と話しました。 さらに、「若い選手や外国人選手など分け隔てなく指導にあたられていたのが印象的でした。天国でもバッティングを教えていると思います」と話していました。
ことし3月に行われた野球のWBC=ワールド・ベースボール・クラシックで日本を優勝に導いた栗山英樹監督もその1人です。 栗山監督は中西さんがヤクルトのコーチを務めていた昭和59年に入団しました。 「選手のことを考えて熱心に指導してもらった」という栗山監督は、現役を引退しスポーツキャスターとして活動していた20年ほど前、バッティングの理論や指導法を学ぶために中西さんの自宅を訪れました。 そこで中西さんは、打撃の極意を身ぶり手ぶり伝えたあと、義理の父親で、西鉄の黄金時代を監督として率いた三原脩さんが書き残した、あるノートを栗山監督に見せました。 三原さんは日本シリーズで巨人を破って3連覇を達成するなど、日本一4回、監督通算歴代2位の1687勝を挙げた名将で、常識を覆す采配は「三原マジック」と呼ばれ、50年以上も前に投打の二刀流の選手起用にも挑戦していました。 その名将が記した監督としての理論や勝負の極意など、野球のすべてが詰まった貴重なノート。 栗山さんは「これは神様からのプレゼントだ」と胸が高鳴り、中西さんになんとかコピーをとらせてほしいとお願いしたといいます。 それ以来、栗山監督はそのノートを繰り返し読み込み、三原さんの考えを落とし込みました。 中西さんは栗山監督について、「彼は本当に勉強家でね。いろいろな本読んだり、いろいろなノートを写し持って、話を聞く人。まあよう(三原さんを)まねとるよ。勉強しとるよ」と、野球に対する熱心な姿勢を評価。 栗山監督が平成24年に日本ハムの監督に就任した際には、三原さんの残した「日々新たなり」ということばが書かれたふくさを送りました。 そのふくさは日本ハムの監督室にずっと飾られていたということです。 三原さんのノートをバイブルに、栗山監督は日本ハムをリーグ優勝2回と日本一1回に導き、大谷翔平選手を投打の二刀流の選手として育て上げました。 中西さんがノートを託してからおよそ20年。 日本代表の監督として3大会ぶりの優勝を目指しWBCに臨む栗山監督について、ことし1月、中西さんは「栗山君が思いきりやってくれるように期待しています」などと思いを語っていました。 大谷選手など大リーガー4人を擁し史上最強の呼び声高い日本代表を率い、「眠れなくなる日があった」と重圧と戦った栗山監督は、大会直前の合宿でも中西さんから受け継いだノートを熟読していました。 そして、三原さんが残した「僅差のゲームで『シノギ』を削る場面は監督がその全能力を投入する時」などということばに背中を押され、大会本番に臨みました。 短期決戦を勝ち上がり、大リーグのスター選手が顔をそろえたアメリカと対戦した決勝では、7人の投手を小刻みにつなぐ継投策という思いきった采配を見せ、3対2で勝利。 文字どおり「僅差のゲーム」をものにして、頂点に立ちました。 野球への情熱がきっかけとなり受け継がれたノート。 三原さんが培ってきた野球理論が、中西さんを通じて、栗山監督に継承され、世界一という形で実を結んだ瞬間でもありました。
▽打率3割7厘、 ▽1262安打、 ▽ホームラン244本、 ▽785打点をマーク、打撃タイトルでは ▽首位打者を2回、 ▽ホームラン王を5回、 ▽打点王を3回、獲得しています。 これらの輝かしい功績に加えて、中西さんにはスケールの大きなさまざまな逸話が語り継がれています。 高松一高時代に3回、甲子園に出場した中西さんは相手の内野手が捕球したあとに、後ろに倒れるほどの強烈なライナーを打っていたと言われています。 その豪快な打撃だけでなく、甲子園でランニングホームランも記録するなど、俊足も兼ね備えていました。 プロ入り後、2年目に打ったホームランは、今も野球ファンの間で語りぐさとなっています。 そのホームランは、昭和28年8月29日、平和台球場で行われた西鉄対大映の試合で出た1本でした。 その様子を見た関係者は、「ショートがジャンプした打球が場外に消えた」や、「160メートルは飛んだ」などと話し、その打球のすさまじさを証言していて、NPB=日本野球機構に残された当時の試合のスコアカードの雑記欄にも、「バックスクリーンを越す場外ホームラン」と記されているということです。
長嶋茂雄さん「印象深い対戦をしたよきライバル」
元ヤクルト 宮本慎也さん「中西さんは2000本安打達成の恩人」
中西さんが栗山監督につないだノート
“バックスクリーンを越す場外ホームラン”などの伝説も